2009年8月6日木曜日

Little Essay 040「大切な人生」






あいつが寂しい顔をしながら言った

「所詮 こんなものだったんだ

 一生懸命働いて 働いて 働いてよ 

 そしてくたびれ果てて…

 気が付いた時には

 手の中に何も残ってやしない


ボクはぬるくなったビールを

喉に流し込みながら静かに聞いていた


「会社を責める訳ではないが

 大切な時間を

 失ってしまった事だけは確かなようだな」


そう言ってあいつは

氷が全て溶けたウィスキーグラスを持ち上げた


琥珀色のはずのウィスキーが

すっかり薄くなってしまって

まるで 主張を持たなくなっている


それは 今の彼の人生に似ていた


「転職しようと思っているんだ

 いや 正確に言うと 独立だ


ボクは何も答えず

最近急に増えだしたあいつの白髪を見ていた

あいつは徐に

ポケットから取り出した一枚の紙きれを

無造作に四つに折ると

ウィスキーグラスのコースターとすり替えた


その紙は「単身赴任」 

名もない町の 支店へ転勤を命ずる

血が通っていない 冷たくて白い物体だった


「大切な人生だ それもよかろう

ボクはビールグラスを持ち上げ

あいつの前に突き出した


あいつも薄いウィスキーグラスを持ち上げた


新しい人生のスタートには似合わないが

グラスとグラスが

心地よい音を立てて「カチン」と鳴った



Little Essay by Yasutomo Honna



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